昨日、初めて寺での生活を送ってみて、普段の自分自身の生活では体験できないようなことを今日の昼まででも数多くしました。
まず一番は坐禅です。
私は坐禅を行うのは、人生で初めてでした。本当に集中した45分は、一回目の時は、大変長く感じられました。
何かを行っているときの一分はあっという間に経ってしまいます。しかし、神経を集中させて、何の音も出さず、ただ自然に聞こえている音を聞き、 今日の自分、そして今までの自分を考えるという一分は、本当はすごく大切な時間なのかもしれないと改めて実感することができました。 一回一回坐禅を終えていくごとに、自分自身と向き合う回数が増えていきます。
ですので、この坐禅に関しては見張られている恐ろしさ、痛さというものもありますが、そのことにとらわれずに心から集中して、 今までの自分を振り返り、そして、今後の自分についてをゆっくり考えていきたいと思います。
そして、二番目は、食事です。
精進料理も、私は、祖父がなくなった10年程前以来食したことがありませんでした。
当時は私も幼く、作法などもまったく知りませんでした。味もほのかにしか記憶はなく、あまり美味しくないという程度でした。
しかし、この研修により、食事とは、何かが犠牲になっているということ。例えば、野菜にしろ肉、魚にしろ私たちが生きていくためには、必要不可欠です。 なので「いただきます」という言葉によって食す前に感謝を示すということを学びました。
また、「食事とは」今まで何かなど考えたこともありませんでした。 本日、初めて食事とは薬であり、食べる際には音を出さずに食べなければいけないという意味が分ったような気がします。
食事については、ただ作ってくれた人だけに感謝をするのではなく、食材のすべてにおいて、心から「いただきます」ということを、この研修が終わっても続けていこうと思います。
このように、まだ、たった丸一日程度ですが、知っていなければならないこと、しっていて当たり前のことでも、私は全く無知であることに気がつきました。
寺での研修を行うことで、一体何の意味があるのかという原点にもう一度振り返りたいと思います。また、法話をしてくださる中で歴史的なことなども、しっかり学びたいと思います。
社会人として、食事などのマナー、掃除やはきものをそろえることの意味など、数多く知らなければならないことがあります。 それをいかに残りの坐禅研修で吸収していくかは、自分の気持ちの持ち方だと思います。なぜこの研修が行っているのかをしっかり頭に入れて、残りの時間頑張っていきたいです。