大雄寺に縁のある人物をご紹介します。
1770年 ~ 1854年
幼名を勝、後に光定、檀山と号した。芳賀郡益子町鹿島神社の神職であった木村市正の二男として生まれる。幼いころから画を好み、島崎雲圃に就いて学ぶ。那須郡黒羽両郷温泉神社の小泉家の養子となり、小泉を姓とした。
黒羽藩主大関氏に招かれ、黒羽城北側に創建された鎮国社の宮司となる。
小泉斐は、鮎描きの名手として知名度が高い、鮎以外に人物図、山水図、仏画など多数の作品を残している。
大雄寺本堂内に掲げられた「板絵十六枚の羅漢図」は市の文化財に指定されている。また、その他にも多くの作品が大雄寺内には残されている。
1593年 ~ 1662年
しゃむ姫は徳川家康の側室の娘で、紀州徳川家の家老水野重仲の養女となり、第十八代大関政増の妻として、二男二女を生み、持仏の阿弥陀如来像を本尊として、黒羽城西側の崖下に長松院法王寺を開基した。当寺は、明治初年に廃寺となる。墓碑は大雄寺山内の大関累代墓所に改葬された。大雄寺には「木造しゃむ姫坐像」をはじめ「金梨子地 膳・椀」やしゃむ姫愛用の「葵御紋附御茶碗」が残されている。
1639年 ~ 1696年
中国浙江省金華府浦江県に生まれた。明朝が滅び清朝に替わる際の混乱期に日本に来航した中国僧の一人。
大半は、黄檗宗に属し、隠元は京都万福寺を開き有名である。元禄元年(1688年)心越五十歳の時、水戸で光圀に会い「涅槃図」を画き親交を深めた。
その五年後、那須温泉に訪れた際、大雄寺に立ち寄る。大雄寺総門に掲げられた「霊鷲」(りょうじゅう)と禅堂に掲げられた「学無為」(がくむい)の篆書額は共に心越の筆である。その他にも親交のあった当時の住職である廓門貫徹大和尚に贈られた「達磨図」や「乗龍観音・梅・竹」の掛け軸も残されている。