お釈迦様のお弟子に物忘れのはげしい、愚かな方がおりました。
お釈迦様から教えられることがなかなか覚えられず、仲間はずれになっていました。
ある時お釈迦様は、一本の箒を与えお掃除を一生懸命行いなさいと教え、「塵を払え、垢を除かん。」と念じ毎日毎日お掃除を行じました。
長年の掃除を実行し、掃除とは心を磨くこと。周囲の奇麗や汚れに左右されることなく、自己を磨くことであると悟ります。
後々有名なお弟子となられました。
このお弟子の名前は、チューダ・パンタカ(周梨槃特)と言います。
掃除は、塵埃があるから掃除するというように、単に奇麗にするための手段として考えると汚れていなければ、掃除は不要ということになります。
重要なことは、染汚、不染汚にかかわりなく、唯ひたすらにつとめる行。
汚れていとも、いなくてもそれにこだわることなく無心に行ずる。
このことが掃除であり、作務であります。
我が国では、当たり前の子供による学校の掃除当番に少なからずと影響を与えているのかもしれない。
(今はこのことを理解されていない。)
ところで、昔からミョウガを食べると物忘れすると言います。
実は、チューダ・パンタカの墓から出てきた植物だから。
日本の尊い譬え話であります。
そして、ミョウガを漢字で書くと「茗荷」です。
名前を荷う。愚かなため自分の名前を忘れるから名札を荷物にしていると言う当て字で「茗荷」。
掃除は自己をみつめ、自己の行であることを知って欲しい。
大雄寺住職 倉澤良裕 記す