▲手を清め参拝 |
先日、テレビでモラルの欠如のはなはだしい光景の報道がありました。
皆さんも見たと思いますが、葉山の海水浴場でのことでした。
バーベキューをした残り物を近くの景勝記念碑が建つ空き地に捨てていく、あるいは、バーベキューの鉄板を海で洗ってしまう、もっとひどい事には近くの神社の「清めの水」で海水着を洗うなど、信じがたい光景に唖然とした。
日本はどうなっているのだろう、不安がつのる。
注意するリポーターに対して、「皆がやっている。」「どこが悪い。」と返事をする始末。
罪悪感がない。
「してはいけない」、「しない」という規範意識が薄らぎ、欠如しているのだろうか。
例えば、赤信号であっても、人が見ていない、お巡りさんがいないから信号無視をする。
「赤信号、皆で渡れば怖くない。」という意識。
立入り禁止という看板が有るにもかかわらず、だれも見ていないからと言って禁止事項を無視する。
このような光景に共通することは、「してはいけない」とわかっていながら違反することである。
「してはいけない」ではなくて、「しない」ということである。
自律的に、習慣的に「しない」ことである。
仏教で「戒」という言葉が使われる。
この「戒」の意は、習慣として「しない」こと。
家庭での躾や社会規範、禁止されることに対して大人たちは、自律的に習慣的に「しない」と言うことを教えなければならない。
先程の「清めの水」で海水着を洗うということが、どんなに恐れ多いことか、「清めの水」の意味を教えられることなく行った行為かもしれないが、少なくともゴミを持ち帰らないで捨てていくこと、海で油ものを洗うなどやってはいけないことは「しない」。
自律的習慣的に「しない」こと。
躾や規範意識やモラルは、家庭の中や地域社会の中で培われ教えられること。
日々の生活の中で親から子へ、孫へと伝え教えられていくものである。
「熏習」という言葉が仏教でよく使われる。
物に香りが染み付くように、人の精神や行いが心の奥底まで影響を与えること、という意味である。
まさに、躾や社会規範は、家庭教育の熏習である。
親から子へ、祖父母から孫へ、先生から生徒への熏習である。
先日那須地区の中学校の代表生徒による少年の主張を聴く機会を得た。
それぞれが素晴らしい発表であった。
親の姿から、あるいは祖父母の病気から、先生の一言の励ましから将来の希望や夢に向かって生きる生き方を見つけた。
そんな、意見発表があり感動した。
次世代を担う子供たちに夢や希望を与えていくには、親から子へ、孫への熏習が大切であると実感した次第である。