平成17年10月1日から「黒羽町」は編入合併により「大田原市」となり、「黒羽町」は消えることとなりました。
「くろばね」という字名後の「黒羽向町」と「黒羽田町」は残ることになりますが、寂しい思いもいたします。
歴史と文化の城下町として知られています黒羽町の地名は、源平の合戦で知られている那須与一宗隆の乗馬「黒鵜の駒」の名にちなんで、黒鵜(くろう)を黒羽(くろう)と書き、さらに黒羽(くろう)を’くろばね’と呼ぶようになったと伝えられています。
天正4年(1576年・今から429前)旧黒羽余瀬白旗の豪将大関高増が黒羽城を築き、白旗から移り住んでから、明治維新に至るまで、代々大関氏の城下町として栄えてきました。
元禄2年(1689年・今から316年前)には、松尾芭蕉の14日間の滞在地として、奥の細道に「那須の黒ばねと云う所に知人(しるひと)あれば、云々」や「黒羽の舘代(かんだい)浄法寺何がしの方に音信(おとず)る。云々」などと「黒羽」の地名が昔から呼称され、古文書などに記されています。
幕末の名君大関増裕のあとを受けた増勤(ますとし)は、明治2年(1869)黒羽藩知事となり、明治4年(1871)の廃藩置県後、黒羽藩は黒羽県と称しましたが、同年11月宇都宮県の管轄となり、明治6年(1873)6月栃木県の管轄に入りました。明治22年(1889)の町村制が施行され黒羽町、川西町、両郷村、須賀川村が誕生。そして、町村合併促進法の公布とともに、昭和30年(1955)2月11日、二町、二村が合併して現在の黒羽町が誕生しました。
自然を生かした農業、林業、観光の町として発展を遂げながら、観光立国として俳聖、松尾芭蕉ゆかりの地を旗印に城址公園の整備と芭蕉の館の整備に努め、広く黒羽の名が知られることとなり、多くの観光客が訪れるようになりました。
10月1日より新大田原市になりましたが、長い歴史と文化遺産は消えることなく、那珂川の清流、黒羽城址公園、大雄寺、雲巌寺など豊富な観光資源を活かした特色ある地域(エリア)として発展に努め、子々孫々に伝えていかなければならないと思います。