東皐心越禅師[とうこうしんえつぜんじ](1639~1695)
中国浙江省金華府浦江県[せっこうしょうきんかふほこうけん]に生まれた。32歳(康熙9年)杭州西湖の永福寺に入る。
17世紀半ばの中国は、明朝が滅び清朝に替わる際の混乱期であり、中国人僧侶らが多数日本へ来航している。
大半は、黄檗宗に属し、隠元は京都万福寺を開き有名である。長崎の興福寺澄一[ちんい]禅師の招きで、1677年(延宝5年)38歳来航、日本に近世篆刻を伝えたとされ、元禄元年(1688)心越50歳、水戸で光圀に会い「涅槃図」を画き親交を深めた。
元禄6年(1693)7月心越55歳、那須温泉に来る。
那須温泉から帰りに黒羽に立ち寄り、黒羽山大雄寺に訪れる。
この時代の黒羽は、この地方の物資の集散地で、米や材木などが那珂川を下って江戸へ運ばれていた。市街は那珂川を挟んで、東岸が黒羽藩大関氏18.000石の城下町、西岸は、河岸問屋が軒を並べていた。
黒羽には元禄2年4月、松尾芭蕉がみちのくへの途中を14日間ほど滞在したが、心越禅師が訪れる4年前のことであった。
その時代と変わらないであろう大雄寺、現在の大雄寺も杉木立に囲まれた山道を登り、総門をくぐると目の前に大伽藍の本堂が現れてくる。総門を入って左側の建物が禅堂である。総門に掲げられた「霊鷲[りょうじゅう]」と禅堂にかかる「学無為[がくむい]」の篆書額、共に東皐心越禅師の筆である。
▲霊鷲[りょうじゅう](総門) |
総門の「霊鷲」の二字から心越禅師がいた杭州の永福寺の飛来峰を霊鷲山と言っていた、その思いからであろうか。禅堂の「学無為」は、禅語で「無為を学ぶ」で「とらわれない、こだわらない心を学ぶ」と解すことができる。
その時代の大雄寺住職は、13代廓門貫徹[かくもんかんてつ]大和尚であった。元禄3年(1690)晋山(住職になったこと)であるから心越禅師の来訪は3年後である。
心越禅師は、「達磨図」と「乗龍観音・梅・竹」を描き、廓門貫徹大和尚に晋山を祝って贈っている。これらは大雄寺14代冨山道庶大和尚により軸にして今なお大雄寺に保存されている。
黒羽藩については、藩主は大関増恒で、貞享3年(1686)江戸藩邸に生まれ、元禄元年(1688)11月増栄公から家督を相続したが、松尾芭蕉の黒羽滞在時は2歳、心越禅師大雄寺来訪時は6歳であったため、なおも江戸にいた。
21代増栄[マスヒデ]…元禄元年12月13日亡
増茂[マスシゲ]…(家督を継いだが世代に入らず)元禄元年10月22日亡 27歳
22代増恒[マスツネ]…増栄の孫、元禄元年11月家督相続
心越禅師[しんえつぜんじ]について。
水戸光圀と心越禅師の有名なエピソードがある。
ある日光圀は、心越禅師の力量を試すため水戸の茶室に招き、一服のお茶を差し上げる。
お茶を口にしようとしたその時、かねて準備させていた家来に鉄砲を一発、ズドーンと放させた。
しかし、心越禅師は、泰然自若として一滴もこぼさず飲み干しました。
光圀が「ただいまは失礼した」と詫びると、心越は「鉄砲は武門の常じゃ、ご配慮無用」と答え、光圀は、安心してお茶を正に飲もうとした、その時心越は「喝」と大声で一喝した。
光圀の手は思わず震えて、茶碗を落としてしまった。
心越は「喝は禅家の常でございます」と平然と答えた。
心越禅師の力量がどれほどのものかを試してみるのであるが、あべこべに試された結果となってしまった。
と言うお話が伝えられている。
▲乗龍観音 |
▲竹 |
▲梅 |
▲達磨図 |